祖母 に関してのあれこれ。

庭の木や、縁側の柱に何回か縛られた。同居していた祖母(父方)に。

理由ははっきりとは覚えていない。
一度は、遊びに来ていた同年代の親戚の子と、何やら揉めたような気がする。

徳人 と言われ、穏やかな人として慕われていたらしい祖母。
何故か、私には厳しく冷たかった。
姉の名に、昔風に “お” を付けて呼び捨てにしたら、箒を持って追いかけ回された。

庭の木や縁側の柱に縛り付けられても、泣きもしなければ、謝りもしない。

可愛くなかったのだろう。

私が中二の時、亡くなった。
悲しくなかった気がする。
泣いたのだろうか?
“死” に対して何かを思ったのだろうか。
人間には何れ死が訪れる。
悲しむ事でもない。

私はとことん冷たい人間?

自殺しようとしたのが同じ頃。

バスで山奥の停留所へ。
森の奥へ入って。
牛乳に硫酸を入れて飲もうとした。

無知。とは恐ろしいもので。恥ずかしいもの。だけれど、助けにもなる。

当然の事。酸と牛乳は分離し、凄まじい腐臭を放ち。
とても、飲めたものではなかった。

敢え無く失敗。
すごすごと家に帰るしかなかった。

家族は誰も知らない。

そんな経験を持っていたから。
自殺願望。抱き続けていたから、
祖母の死に何も感じなかったのだろうか。

ひょっとしたら、
アッサリ、死ねて良かったね。
位の感想しか持っていなかったのかも知れない。
90歳近く迄生きたんだから良いじゃん!
くらいの思いしか抱いていなかったような気がする。

とことん人に冷たい。

あの頃、既に私の心は壊れていた。


そして、祖母の死から数ヶ月後。
母、姉、妹、私。
4人。話があると言う父の前に並んで正座させられた。

「私たちは離婚する事になった。お前達はどちらと一緒に住むか決めなさい。」

初めて聞く話だった。
両親が揉めている姿など見た事もなかった。
ましてや喧嘩など。
家長への口答えなど女ごときができる筈はなく。
妻といえども、黙々と従うしかない。

そんな姿しか見ていなかったのだから、姉妹3人。
其々に驚いた。
妹は、父の勝手な言い分に腹が立ったと言う。
姉がどう思ったかは知らない。
姉と、深い話などした事はない。

私は、咄嗟に喜んだ。
「一人暮しが出来る!!
どちらにも着いて行くのはやめよう!!」
心中秘かにVサイン。

然し、最も驚いたのは母だったらしい。
それまで、一度の相談もなかった。
故に話し合いも無し。

全くの父の独断専行による勝手極まりない宣言。

九州男児の横暴。此処に極まれり。である。
半世紀経っても、九州男児のこの本質性は変わってはいないと、私は断言する。これも勝手な偏見の中で。

話を戻す。
事此処に至っても、父と母の話し合いはなされなかったのではないかと思う。
父が諸々、考え合わせて離婚を断念したのは、親戚中からの反対と説得によるらしいから。

もちろん、母が何を想いどう行動したかは、私は知らない。
姉と同様に、私とは全く関わりのないアカの他人。
に、等しかったから。
ひたすら、私を言葉による暴力で傷付け、嘲笑するだけの “敵” に過ぎなかったから。
彼女達の心中など私にはどうでも良かった。
と言うか、そんな思いさえ抱いた事はなかった。あの頃は妹もその中に含まれていた。
妹が父の勝手に腹が立った。と言うのも大人になってから、初めて聴いた話。

そして、父の横暴極まりない離婚宣言。
その裏にあったのは、タダのマザコンだったから。
と、これも大人になってから気付いた。

祖母は、母の足りなさを必死に補い、息子を満足させていた。
祖母が亡くなり、母の本性が父の前に100%晒される事に。
母の片付け下手。いい加減な家事。下手な料理は、父には受け入れ難かった。

其処には同情する。
然し、20年近く夫婦は、していても、母の方を向いた事も無く、母の心を思いやった事など一度も無かった。
と、言う事。

だから、九州の男は嫌いなんだよ!!

と、話があらぬ方向へ。


私が言いたい事。
そらは、中二にして、一人暮しが出来る! と、咄嗟に心の内にガッツポーズを取ってしまうほど、私にとって、家庭が居心地の悪い場所だった。

あの家の中に私の居場所は無かった。
ということ。。。