母の日

明日は母の日。

この時期の街中、TVは
私には結構辛い。

親に感謝など出来ない。
生んでくれてありがとう。など、
死んでも言いたくない❢
思えない。

私にとって。
感謝しろよ!

は、強制でしかない。

ひたすら、無視していた。


それが、毎週礼拝に通えるようになってからの、この日は、悪夢。

わざわざ『母の日礼拝』を謳う。
“母” なる人を前に進み出させて。
お決まりのカーネーションを一人一人に渡す。

いい歳になっても “母” なるものになれず、進み出られず席に取り残されている私の様な者の事など眼中にない。

それでも、『汝、父と母とを敬え』
聖書の教えであると同時に、この国では当り前の事。
敬い愛する。
それは、人としてしなければならない事。
至上命令 として、愚直に受け入れていた。
心の底から、父母を敬い愛する事の出来ない自分を、ひたすら責めていた。

母親になれなかった。
その遠因もアイツにある。
そう叫びたくても、口を閉ざし、
クリスチャンらしく、微笑んで、
カーネーションを持つ人を祝福していた。

正直、その儀式の異常さなど。
自分の心が傷付いているなど、思ってもいなかった。

『そういうもの』
受け入れてさせられている心の鈍感さは怖い。

いや、鈍感にして置かなければ、
生き抜いては来れなかった。


母の日。なるものに自分の心が如何に傷付いていたのかを知ったのは、
数年前。

現所属教会で、何時もと同じ礼拝が、粛々と執り行われ、散会した後。

あ、母の日礼拝。ではなかった。
スルーしてくれた。

涙が出そうになるほど、嬉しかった。

自分が、どれ程、この日を嫌悪していたのかを実感した。

母を亡くした人。母の居ない人には残酷な日。

それは、知っていた。
そうだよね。頷いていた。

けれど、虐待サバイバー。
被虐待児であった事にさえ、気付いていない私の様な者にも、とてつもなく、残酷で非常な日。だった。

母の日。なんて、この世から消えちまえ❢

口汚く罵りたい私……


そこまでは言わない。
にしても、教会での母の日礼拝。
なくしても良いのでは?
と思う。

発祥がアメリカの教会から。
であったにしても。

これだけ、多様性が言われる現代。
画一的に。一括。

では済まない社会になっている。

教会あげて、社会全体で、祝いバンザイしなくても、良いのではないか。

個人で、家族で感謝を捧げていれば良いだけの話なのではないか。

そんな気がするのだが、
これも、一種の僻み根性。
なのかな。。。