みころもの裾

小2の頃。子供用の『聖書物語』を近所のお兄さんから借りて読んだ。
エスさまの優しさが嬉しかった。

朝。目覚めてすぐのあの頃の私の日課は、昨夜の悔しかった事、悲しかった事を思い出し、布団で顔を覆って、もうひと泣きする事。
声を忍ばせて泣いていた。
最近は時刻を知る為に朝のテレビわつけたまま。あの頃はラジオだった。何故か母は『こころのともしび』。流しっ放しにしていた。信仰心の欠片も無い筈なのに。
布団の中で声を押し殺して泣いている私の耳に聴こえてきた
「神はあなたを愛しておられます」
愛、の意味など当然理解ってはいなかった。それでも嬉しかった。私を大切に思ってくれているひとが居る! それだけは理解できた。
励みになった。

「大きくなってこの家を出たら、教会へ行って、洗礼を受けて、クリスチャンになろう!!」

密かに決意した。
家族には言えなかった。
母や姉にどんな言葉で嘲られるか想像がついたから。

だからと言って、聖書を読む事もキリスト教を学ぶ事もしなかったけれど。

けれど、聖書物語を読んで、「イエスさま、好き!」
と思ったあの時、御衣の裾を掴んだのだと思う。

母からの罵声は、姉に伝染し、妹に、母方の親族へと伝染して行った。

反発した。

けれど、結局、母と同じ言葉で自分自身を罵倒するようになっていた。

そして、虐待サバイバー。

生き抜いたんだ。私。
医師にも太鼓判を押して貰えた完璧な自死方法まで考えついていた私が。

死にもせず、こうして生きている。
その事に何の価値が?
何の意味が?
突っ込みたくもなるけれど、
取り敢えず、生き抜いて来たんだ。
サバイバルして来たんだ。

出来た訳が理解った気がする。

折角掴んだ主イエスの御衣の裾を離したくなかった。
何が何でも掴んで居たかった。

その思いが、私を生かした。

いや、神が生かし続けさせられた。

少し、メイワク と言いたい気もするけれど。

きっと、いつか感謝の涙を流すのだろう。

現在は、良く頑張ったね。
の涙。今日も流していよう。