クリスチャン

昨日はクリスチャンらしからぬ暴言を吐いてしまった。
愛と赦しを標榜するクリスチャンが何と言う事を!

だろうか?
どんな人をも愛せるから。
何をされても笑って赦せるから。
クリスチャン?

誰も彼もがマザー・テレサになれるのなら、クリスチャンだらけの欧米は素晴しい世界になっている筈。。

かつては私もそう思っていた。
洗礼を受ければ、素晴しい人格者になれる。と。
なのに、何時まで経っても変わらない。
自己嫌悪、自己否定は得意中の得意だから、自分を責めて責めて。
辛かった。

現在、所属している教会に辿り着いて。被虐待児であった事を認識して。

やっと少し前へ。

主イエスを信じれば罪が赦される。
赦されただけ。いのちの書から、犯した罪の箇条書きを削除して貰えるとだけの事。
罪を犯し、人を愛せず赦せず、感情に支配される特性はそのまま。私の肉に内在している。
聖霊が、少しづつ少しづつ変えて下さっているのだけれど。。。

私の怨念は、根深く根強く、シベリアの凍土より硬い。

神の国の門を潜って、栄光の体に造り変えられる瞬間迄、恨み辛みを呟き続けるのだろう。

それでも、現在の教会に通う様になって、随分変わる事ができた。

クリスチャンらしく在らねば!
と自分の本意を押さえ込み、気付かぬふりして無視し、愛と赦しの祈りをしていた頃に比べれば、楽になった。

神様!
悔しかったんです!!
悲しかったんです!!
赦すなんて到底出来ません!!

初めてで本音の祈りをした時に流れた涙を忘れない。

本当に、神が赦して下さっていると実感した。

自分の罪の深さを思い知って。
私は楽になった。
パウロやルターの言う『キリスト者の自由』を少しだけ、理解出来た気がした。

後は、前を向いて歩む!

その為には、この心のあおみどろを何とかしなくてはならない。

過去なんか振り返っても、過去は変えられないのだから。

よく言われる。
けれど、過去の分析をきちんとしなければ。
何が私の身に起こり、何がどう作用し、何故こういう私が出来上がったのか。
結果をもたらしたモノが何であったのか。
知らなければ前へは進めない。
私にはそう思えて。

この絶望と希望の狭間。
アコルの谷から過去を見つめようと。
なのに、なかなか気が進まず。
もう、過去はどうでも良くなったのかな?
思ってたら、昨日の狂気。
昼間だった。夜なら理解る。
感情が昂ぶって、オーバーに派手に
喚いてしまう。

けれど、昨日は真っ昼間。
夏休みが辛い。家庭に居場所がない。
に反応してしまった。
過剰な迄に。
一日経っても、まだ、心は鎮まらない。

まだまだ完治までは道遙か。

ゆっくりじっくり。
行きつ戻りつ。

焦らず行こう。

続けよう。。。