此処から

三島由紀夫は生まれた時の事を覚えていると言う。産湯の盥のふちの光の反射を覚えていると言う。

私も覚えている。
助産師の「女の子ですよ」の声。
その声に溜息を吐き目を背けた父方の祖母。私よりも先に姑を見た母の何とも言えぬ悲しげな表情。初めて私を腕に受け取って、吐いた小さな溜息を私は覚えている。

男児誕生を求められる程の旧家でも名家でもないのに。
昭和の中頃。まだ、女は男児を産む為に嫁いでいた。女は男児生産機。でしかなかった。

父と母は見合いさえしていない。
写真も見ていない。母の思いは知らぬが、父は「障碍者でも何でも良い。子供さえ産めれば」だった。
戦争が始まりそうなのに、結婚して妻子など持つ訳にはいかない。と、単身者として戦地に赴き、シベリア抑留から帰って来てすぐに、誰でも良いから。と結婚を決めた。
母の思いは知らない。知りたくもなかったから。
ただ、眼鏡を外して花嫁衣装を身に纏い、式を終え、着替えを済ませて眼鏡をかけて。初めて夫となった人の容姿を確認したらしい。

なんともバカバカしい。

けれど、そんな結婚が珍しくもない時代に、母は子を産むだけの為に嫁いだ。生真面目すぎる地方公務員の許へ。

そして最初の子を産まれてすぐに亡くした。女の子。次の子は無事に産まれ育った。これも女の子。
三度目のお産。ともなれば誰もが「今度こそは男の子!!」と期待しただろう。確信に近い期待。

なのに、女児誕生。

さぞかし、周囲には重い空気が漂った事だろう。祝福する気にもならなかっただろう。

そう思う。
幼い私は「男の子に生まれたかった」と、思っていた。
活発でも、お転婆でもなかったのに。。
きっと、祖母や母に何度も何度も溜息を吐かれたのだろう。
「男の子なら良かったのに」
と。
面と向かって言われたのだろう。


3才位の時、引っ越した、
父の転勤に伴って。

2才下の妹を背負った母の後を歩いて、
引越し先の家に入ったのを覚えている。
私は手を繋いで貰っていたのだろうか?
祖母は長子である姉を大切にしていた。
当然、姉の手を引いていたであろう。
あの時代の家長が引っ越しを手伝うなどあり得ない。
父は出勤していたに違いない。
右眼弱視。で、ヨタヨタしていた私は?
ヨタヨタしながらひとりで歩いていたのだろうか?

何れにしても、引っ越し。荷物が積まれたトラック(三輪車?)の屋根に乗って移動したいと思った事。そして、妹を背負う母の背。
覚えている。

引っ越して間もなく。だろうか。
1〜2年後。だろうか。
遊びに来ていた父の同僚夫人との会話を覚えている。
母と気が合うらしくよく訪ねて来ていた。
明るく社交的な人。
その人に


何かの話の流れで「男の子になりたい」
と言う私に
「あら〜! あなたは男の子だったよ。
引っ越しの時、男の子のシルシを落として来たじゃないの。覚えてないの?」

落として来た!!
ならば、拾いに行かねば!!!
と、元の家への道を辿った。

とは言っても、幼児の足。
50メートルも戻ってはいないだろう。

それ程に、私は男の子でなければならなかった!
思い込んでいた。

それは、周囲から思い込まされていたのだ。
きっと。

私の思考回路。
「〜 すべき」「〜 しなければならない」
は、あの頃から既に私の脳に、心に刻み込まれていた。